九州大学大学院医学研究院 神経形態学分野
神野 尚三
この度は、栄えある日本神経科学学会奨励賞をいただき、選考委員会の先生方をはじめとする関係各位に厚く御礼申し上げます。受賞することになった研究テーマは、大学院生時代に取り組みを開始し、対象を変えながら現在まで続けている、中枢神経系のステレオロジー定量解析に関するものです。ここで言うステレオロジーとは、1984年にSterioという仮名の著者によってJournal of Microscopy誌に発表された、3次元の構造に関する情報を、2次元の断面から抽出し、正確に定量化するための理論です。従来から、顕微鏡切片を用いて定量する際には、対象の大きさ、形、方向などの違いによって著しいサンプリングバイアスが生じることは知られていたのですが、ステレオロジーはダイセクター法によってそれらの問題を解決することに初めて成功しました。現在では、解剖学だけでなく、材料工学、鉱物学などの分野でもその重要性が認識され、活用が進んでいます。
とは言っても、ニューロンやシナプスの総数や密度など、ステレオロジー定量解析から得られる解剖学的データは無味乾燥なものが殆んどです。多くの研究者からは、必要かもしれないが退屈なもの、と考えられているはずです。にも関わらず、私がステレオロジーに取り組むようになった経緯には、精神科での体験が影響しているように思います。私は大学卒業後の二年間、精神科の臨床研修医として過ごしました。精神科を選んだのは「脳と心」の研究に漠然とした興味があったからであり、研修の当初は、「脳」から「心」を理解できるようになるかもしれないという期待が確かにありました。しかし、様々な患者さんと向き合う中で、「脳と心」の研究について、次第に疑問が募っていきました。臨床の現場では、「心」は「心」として厳然と存在していました。その一方で、目の前にいる患者さんの「心」が「故障した脳」によって作り出されている、という考えを私は受け入れることが出来ませんでした。そして、二年間の研修を終える頃には、「心」を理解するために「脳」を研究するという言説は、もはや詭弁にしか聞こえず、いわゆる二元論に陥っていました。「脳と心」の研究をあきらめた私は、神経解剖学の大学院に進みましたが、「脳」を知るために「脳」を研究しようと少々依怙地になっていたのも事実です。そうした時に出会ったステレオロジーの革新的な理論に私は惹きつけられ、「心」の研究から背を向けるようにして定量解析に没頭していきました。
大学院での最初のテーマは海馬のGABA作動性ニューロンの形態学的研究でした。海馬のGABA作動性ニューロンは、樹状突起や軸索などの形態学的特徴、カルシウム結合タンパクや神経ペプチドなどの分子マーカーによって同定される神経化学的性質、電気生理学的活動性などにおいて多様であり、歴史的に幾つものサブタイプに分類されてきました。さらに近年の研究により、GABA作動性ニューロンが海馬のリズム形成や同期化、シナプス可塑性の制御に重要な役割を果していることや、サブタイプ特異的な空間的−時間的作用を有することなどが注目を集め、現在も盛んに解析が進められています。その一方で、大部分の研究が分子レベルから単一細胞レベルの定性的なデータに留まっており、GABA作動性ニューロンの機能的意義をシステムレベルで理解するには至らない状況が長く続いていました。その原因の一つが不正確で不十分な定量データにあると考えた私は、海馬のGABA作動性ニューロンについて、ダイセクター法による厳密な定量化を計画しました。具体的には、分子マーカーによってGABA作動性ニューロンの神経化学的サブタイプを同定し、空間分布様式を明らかにすることを目指しました。研究に先立ち、解析の効率化と精度の向上を目的として、共焦点レーザー顕微鏡と画像解析ソフトウェアをマクロプログラムによって自動制御するステレオロジー定量解析システムを独自に構築しました。約10年間に及ぶ解析により、GABA作動性ニューロン全体と、その8種類の代表的な神経化学的サブタイプについて、マウス海馬における領域別、層別の空間分布密度を世界で初めて明らかにすることができました。また、GABA作動性ニューロンの神経化学的構築には海馬長軸方向による複雑な差異が存在していること解明しました。一連の研究によって得られたGABA作動性ニューロンの神経化学的サブタイプの定量データが、これからの海馬研究に少しでも貢献できれば幸いに思います。
今後も中枢神経系の様々な解剖学的構造について、ステレオロジー定量解析を進めていき、さらには点過程解析などを組み合わせることで、神経解剖学の新しい領域を切り開きたいと考えています。そして将来、こうした研究が、かつて背を向けてしまった「心」の研究の一助になれば、と思っています。最後になりましたが、形態学の真髄を身をもって教えていただいた小坂俊夫教授、ステレオロジーの魅力を紹介していただいた秋鹿祐輔先生、精神科での臨床研修をご指導頂いた田代信維名誉教授、さらにお世話になった多くの共同研究者の先生方に心より感謝申し上げます。
【略歴】
1994年
九州大学医学部卒業
1996年
九州大学医学部付属病院 初期臨床研修修了
2000年
九州大学大学院医学系研究科 博士課程修了
2000年
九州大学大学院医学研究院 助手
2004 - 2006年
連合王国オックスフォード大学 博士研究員 (留学)
【図説】
マウス海馬におけるGABA作動性ニューロンの4種類の代表的なサブタイプについて、空間分布密度 (NDs = ´1000 / mm3) をカラースケールで示したもの。