脳の可塑性と遺伝子発現
東京大学大学院医学系研究科脳神経医学神経生化学
奥野 浩行
この度は平成21年度日本神経科学学会奨励賞という名誉ある賞を頂き、大変光栄に存じます。
今後の研究活動に対する大きな励みとなり、一層研究に精進したいと意を新たにしております。
今回の受賞では、前初期遺伝子と呼ばれる一連の遺伝子の刺激依存的な発現誘導が、神経可塑性や長期記憶の形成に果たす役割についてのこれまでの一連の研究を評価していただきました。私が脳・神経の研究分野に足を踏み入れたのは、ある一報の論文がきっかけでした。私は学部・修士課程において、原癌遺伝子として注目を集めていた前初期遺伝子c-fosの研究に携わっておりましたが、当時の研究室での必読論文リストの中に”c-fosはけいれん誘発剤などで神経活動を上昇させると海馬の歯状回で発現誘導される”というTom Curran博士らによって報告された論文がありました。細胞増殖に関わると考えられていたc-fos等の前初期遺伝子が分裂を止めた神経細胞においてどのような役割に果たしているのか、という点に大いに興味を惹かれました。大学院博士課程において私は東大医学部の宮下保司教授の門をたたき、幸いにも霊長類の長期認知記憶形成過程における前初期遺伝子の発現を検討するプロジェクトに携わる機会を得ました。その結果、側頭葉下部の視覚性長期記憶関連領野において、zif268や脳由来神経栄養因子(BDNF)等の前初期遺伝子が記憶形成過程に発現することを明らかにすることができました。
その後、2000年よりジョンズ・ホプキンス大学のPaul Worley教授の下に留学する機会を得、Arcに関するプロジェクトに従事いたしました。当時、Arcはその発現の神経活動との相関の良さなどから注目を集め始めておりましたが、その生物学的機能はまったく不明でした。我々のプロジェクトでは細胞生物学、生化学的手法・イメージングなどを組み合わせて、ArcがAMPA受容体のエンドサイトーシスの制御に関わることを明らかにすることができました。帰国後は、引き続きArcのシナプス調節機構の解析を中心に研究を進めております。最近、Arcプロモーター領域を詳細に解析した結果、100bp程度の短いゲノムエレメントSynaptic-Activity Regulated Element (SARE)がArcの神経活動依存的な転写誘導に必須な働きをしていることを同定し、これまで不明であったArcの活動依存的な発現機構の一端を明らかにすることができました(図)。

図の説明: SAREによる Arcのシナプス活動依存的な転写誘導モデル
今日、活動依存的な遺伝子発現および新規タンパク合成が長期記憶形成のために必須である、という概念は広く受け入れられていると思います。しかしながら、“どのような遺伝子が誘導されることが長期記憶形成に必須であるのか?”という基本的な問いは未だ明確な答えがありません。ここ10年間ほどの分子イメージングや分子解析技術の進歩は驚くべきもので、単一細胞からのmRNAのプロファイル解析や、いわゆる”deep sequencing”による網羅的な転写因子結合部位解析などが行われるようになりました。また、新しい光学技術や光作動性分子技術によりシナプス入力を人為的にコントロールすることが可能となっています。このような強力な手法を用いて、今後はこれまでアプローチが困難であった問いに対して積極的に挑戦していきたいと考えております。
最後になりますが、今回賞をいただけたのは、これまで私をご指導いただきました多くの先生ならびに一緒に研究を行ってきた同僚や共同研究者の方々のおかげであります。皆様に深く感謝いたします。特に、大学院・助手時代に研究に対する心構えをたたき込んでいただいた、東京大学大学院医学系研究科・宮下保司教授には、現在にいたるまで様々なご指導をいただいております。また、所属研究室の尾藤晴彦准教授には、日々、生化学・分子生物学の奥不深さをご教授いただいております。この場を借りて篤く御礼申し上げます。

筆者近影
【略歴】
1990年
東京大学理学部卒業
1995年
東京大学大学院医学系研究科博士課程中退 (2000年 学位取得)
1995年
東京大学大学院医学系研究科 統合生理学教室 助手
2000年
ジョンズ・ホプキンス大医学部 神経科学講座 ポスドク研究員
2003年
東京大学大学院医学系研究科 神経生化学分野 助手、助教
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