道 標(どうひょう、みちしるべ):第2回 小幡 邦彦先生

第2回 道標~迷った時の道しるべ~ は、小幡邦彦先生です。

 

 
「道標」~迷った時の道しるべ~
 

小幡 邦彦 先生    
日本神経科学学会名誉会員・元会長、生理学研究所元教授

 
 
Q: 研究を始めたきっかけは、何でしたか?

 わたしはしっかりした考えもなく医学部に進んだ。専門課程1年では解剖学、生化学が忙しく、生理学には興味がなく講義も欠席していたが、3学期に生理学実習があった。それは一つのテーマを2,3か月間実験して報告する形式で、わたしのグループは大学院生の大島知一さん(元・東京都神経研部長)の指導で、筋紡錘が出すインパルスを記録した。友人はほかの勉強に忙しくわたし一人が残されたが、カエルの神経筋標本を苦労して作って筋肉を引っ張ると、1本の神経線維からインパルスが出てスピーカーでバリバリと聴こえるのに感激した。引っ張り具合に応じてインパスルスの頻度が変るのを電磁オッシロで記録して計測した。実習修了後も第二生理学教室に出入りして大島さんと中島重弘助手(元・パデュー大教授)に面倒をみてもらった。私も大きい顔をして、隣の薬理学教室の人たちに単一神経の摘出法を教えたりした。同じ経緯で生理学者になった同級生に第一生理で心電図を製作して実験した故・熊田衛さん(元・筑波大、東大生理教授)がいる。

Q: 研究をしていた頃に大きな壁と感じたものは、何でしたか? それをどのようにして乗り越えられましたか?

 卒業して病院でインターンをしていたころ、伊藤正男先生がEcclesの研究室から帰国して実験室を立ち上げることになった。伊藤先生は大島さんが尊敬していた人なので、わたしはすぐ伊藤チームに加わった(翌1963年春に大学院入学)。Ecclesは当時シナプスでの新発見をつぎつぎとJ.Physiol.に発表し、翌年(1963年)ノーベル賞を受けた。伊藤先生はオーストラリアと日本の研究支援体制の格差にがく然とされたようだが、実験室はエックルス研究室の設計図通りに作られたので、わたしは世界最先端の研究だと信じて充実した日々を送ることができた。教室の方針で新大学院生は半々の時間を先輩の実験の補助と自分が考えた実験とに使った。Ecclesの総説Ergebn.Physiol.(130ページの大作、1961年)を輪読し、その拡大版のThe Physiology of Synapses (1963年)を分担翻訳して出版したので、シナプス生理の概略が学べた。当時、哺乳類の中枢ニューロンで細胞内記録が取れるのはEccles研究室だけであり、誰もが新しい研究テーマを選べるフロンティア時代だった。伊藤先生はEccles研でネコ脊髄運動ニューロンの抑制性シナプスのイオン機構を研究されたが、抑制性トランスミッターが何かはわからなかった。EcclesらはGABAがトランスミッターではないと結論していた。わたし自身のテーマとしては交感神経節細胞で抑制性シナプスを研究しようとしたが、周囲の結合組織が強固で良い細胞内記録がとれなかった。大学院1年生のわたしにも細胞内記録用装置一式を備えて下さった故内薗教授に感謝している。自分のアルバイト収入で部品を買って装置を組み立てたという時代だった。しばらくして伊藤先生はネコでプルキンエ細胞が抑制性ニューロンであることを発見し、わたしと1級下の大地陸男君(元・順天堂大生理教授、在米)とが従ってそのトランスミッターを探すことになった。やがてわたしは交感神経節を止めてプルキンエ細胞に専念した。抑制性ニューロンは甲殻類(ロブスター)でKufflerが研究していたが、哺乳類では脊髄で小型のものが知られているだけで、その所在もはっきりせず、細胞内記録はむりであった。
 Ecclesの本にはトランスミッターの同定基準は1. 作用、2. 薬理、3. 存在、4. 放出と書いてあった。そこでダイテルス細胞でプルキンエ細胞が起こすIPSPと候補物質の作用が同じであるかを調べた。方法はEccles研で脊髄運動ニューロンのために開発されたコアキシャル(同軸)電極で、内管で細胞内記録を取りながら、外管に充たした候補物質を電気泳動で記録中の細胞に投与する。運動ニューロンは脊髄の表面から1,2mmのところにあるが、ダイテルス細胞ではガラスのコアキシャル電極を延髄腹面から7mm刺入するので、損傷を少なくするためにはなるべく細くする。1匹のネコの実験のために10本くらいの電極を作るのに2、3日かかった。滞在中の外国人にわたしはコアキシャル・マンと呼ばれた。初め、GABA以外の物質を調べたがダメで、結局GABAに行きついた。ダイテルス細胞にGABAを投与するとIPSPに特徴的な過分極が起こった。明解な記録が取れたのは3回くらいだが、統計処理など必要もない自信の持てる結果だった。薬理実験ではやはりEccles研で開発された5管電極を用い、細胞外記録を取りながら4種の物質を投与した。GABAの作用とプルキンエ細胞のIPSPはともにピクロトキシンで阻害された。

Q: 先生にとって「これがターニングポイント」だったと思われる出来事は何ですか?

 同定基準1, 2の検定が終わり、3. 存在に進んだ時だった。ちょうどKuffler研でKravitzらがロブスターの太い抑制線維と興奮線維のGABAを測定し、抑制線維に圧倒的に多いことを発見した。ロブスターの線維3 cmで測定したので、ネコでも大型ニューロン500個を集めれば可能だ。それにはP. fluorescens ATCC14430という細菌だけが持つGABA分解酵素をGABAに作用させて発生するNADPHの蛍光を測定する。そのためには医学部の微生物、生化学、薬理学の教室に行って指導と協力を受けて、そこの実験装置を使った。まず細菌のバンクがあるという東大微生物研究所で探すと14430はないので、似た番号のものを2種類貰ってきて培養したが目的の酵素は作っていない。精神科(脳研生化学を兼任)にあるというので訪ねると、気軽に一匙分けてくれたが、細菌は生えてこず、それは酵素抽出用に破砕されたものだった。それでATCC(アメリカの細菌バンク)に手紙を書いて、そこから14430を入手できた。細胞は氷上に置いた組織からガラス針でかき集めた。プルキンエ細胞のGABA量は、比較した運動ニューロンの4倍だった。
 大塚正徳先生がKuffler研への留学を済ませて東京医歯大の薬理学教授に就任され、大学院を終った私が助手に採用された。大塚先生は伊藤先生と大学同級であり、わたしも、もともと親しかった。大塚先生はKuffler研でKravitzとロブスター神経節のニューロンの1個ずつについてGABAを測定して、そこでGABA性と非GABA性ニューロンのマップを完成され、さらに抑制性シナプスの活動に伴ってGABAが放出されることを証明して、GABAが甲殻類のトランスミッターであることを確定させた。生理学教室には大型のフラスコと試験管くらいしかなかったが、大塚研では蛍光光度計はもちろん液シンまで設置され、わたしがGABA研究を続けるのに絶好だった。NADP+とNADPHをサイクルさせてNADPHが1万倍近く増幅する酵素サイクリング法というのがあり、わたしも試していたがとても手には負えなかった。大塚先生はみごとな手順でGABAのサイクリング法を確立され、ニューロン1個でGABA定量が可能になった。便利なピペットマンは未だなかったが0.17μlで反応させた。プルキンエ細胞と背側のダイテルス細胞ではGABA含量が高く、運動ニューロン、大脳皮質錐体細胞、腹側ダイテルス細胞では低いことが判った。小脳皮質を除去してプルキンエ細胞を変性させると背側にあるダイテルス細胞では腹側のものと同程度にまで減少した。プルキンエ細胞の線維はダイテルス核の背側だけに来ているので、背側細胞で計測されたGABAは付着していたプルキンエ細胞の線維末端のものとみなされた。その後、大塚先生は脊髄後根(感覚神経)のトランスミッター同定に移られ、サブスタンスPを発見された。
 わたしに残ったのは基準4の放出だ。これは大塚先生のロブスターでの実験法をそのまま使えばよい。小脳皮質を刺激し、第4脳室を潅流した。プルキンエ細胞のターゲットはダイテルス細胞のほかに3対の小脳核があり第4脳室を取り囲んでいる。灌流液に回収されるGABAは微量のため、大量の塩分を陽イオン交換樹脂と陰イオン交換樹脂のカラムを通して除去し濃縮した。GABAの一部は操作中にも失われるので、最初に微量の放射性GABAを加えておいて消失分で補正した。これには液シンが必需品だ。プルキンエ細胞は自発的にも活動しているが、刺激中には第4脳室へのGABA放出は3倍に増えた。小脳核の直接潅流も行ったが組織の傷害もあり明解な結果は得られなかった。近年は潅流用の浸透圧チューブと精確な微量ポンプが入手できるので、組織内潅流が可能と思われる。これでGABAをプルキンエ細胞のトランスミッターと同定したと考えられ、現在は哺乳類の抑制ニューロンにも共通するとみなされている。グルタミン酸については厳密な同定実験は行われなかったが、その後の選択的拮抗薬の発見やレセプターの分子生物学実験から、普遍的な興奮性トランスミッターと決まっている。

 わたしはネコでの実験はやり終えたと考えて、Kufflerの許へ留学することになった。大塚先生が築かれた絶大な信用のおかげだ。そのDept. Neurobiologyは新しく設立された所だが、正教授6名と研究員、大学院生を含めて総勢25名位と発展中だった。Kuffler自身は自分の実験を若手1-2人と行い、あとは放任主義だった。毎日昼食時にセミナーがあり、教室員や来訪者が報告していたので、教室内での研究や所外の情勢は理解していたと思う。Kravitzのラボに空きがなく、FurshpanとPotterの組織培養ラボに加わった。わたしはネコでの実験に限界を感じていたので、ニューロンの培養がプラスチック皿で簡単にできれば有用だと期待した。両ボスはそれぞれ所外の活動に関心があり、実験は研究員5人と大学院1名に任されていた。主に新生ラット交感神経節細胞の単離培養を行っていたが、わたしは小脳と大脳皮質の培養を企てた。やがてこれは未だ脳のモデルには使えないのがわかって、交感神経節や後根神経節の培養でその薬理学を調べた。GABAはこれらの細胞を過分極ではなく脱分極した。幼若期に見られるGABA作用の発見だった。帰国前の半年間は交感神経節の培養条件を変えるとアドレナリン作動性がコリン作動性に変わって、互いにシナプスを作ることを発見した。生化学的にも大学院生が証明してくれた。混在する非神経性のサテライト細胞が出す因子によりフェノタイプが変更されるようだった。滞在を延長して続けるよういわれたが、子供の入学も近いので帰国した。同僚だったPattersonが引き継ぎ10年間掛かって、この因子をLIFと同定した。わたしは生化学的素養がなく、粘り強さも足りないので、続けても駄目だっただろう。Kuffler教室は発表論文が多くはなかったが、在籍した若手は全米に拡がってハーバード・マフィアと陰口されるほど活躍した。Kuffler の人徳と方針が関わったのであろう。

Q: 先生がやって来られた分野で、未だやり残されていることは何ですか?

 医科歯科大に帰国後は組織培養ができる当てもなく、イモリの神経再生を調べたりしたが、ちょうど秋の科研費応募の時期で、神経科学の総合研究に応募した。当時の総合研究では計画班員よりはわたしのような一般班員に多額が配分された。幸運にも採択され、CO2培養器、倒立顕微鏡、ふ卵器、滅菌器などが購入できて、従来の電気生理学機器と合わせて培養実験が可能になった。わが国も経済的に成長し、オイルショック直前だったので、プラスチックの培養用品が使い捨てできるようになっていた。しばらくして群馬大に移転することになり、実験装置を持って移った(1975年)。そこは定員の空きもない既存の教室だったが、やがて助手Tくんと大学院生Sくんが参加した。末梢ニューロンの培養にNGFが必須なように、中枢ニューロンにも固有の栄養因子が要ると考えて、脊髄ニューロンの培養をバイオアッセイに使ってニワトリ胚から抽出することにした。従来の方法はイオン交換-、ゲル濾過-、薄層-クロマトグラフィーであるが、新しい二次元電気泳動法はSくんを東京に送って習得させた。モノクローナル抗体作製には専門家のFくんを講師に着任してもらった。遺伝子クローニングは群馬大内分泌研の加藤幸雄博士(現・明治大教授)の協力で実施した。いくつかの新因子が発見され、それらはTくん、Sくんのライフワークになった。

 1988年生理学研究所に移った。その実験室は先任教授が残された生化学実験器具が完備していたので、研究所初のP2遺伝子組み換え実験室を作って研究を始めた。1992年、KandelらとTonegawaらが神経科学にもノックアウトマウスが有効であることを示した。わたし自身は20年間、GABAの研究から離れて世界での進展を見守るだけだったが、2種のGABA合成酵素GAD65とGAD67のノックアウトマウスを作ることにした。マウスの作成は他部門の八木健助手(現・大阪大教授)、三宝技官に依頼し、ベクターの製作やマウスの生化学的分析は部門の丸山敬助教授(現・埼玉医大教授)と淺田秀穂助手(現・済生会中央病院部長)が担当した。GAD65,67とも脳でGABAを合成するが、胎仔ではまず67が発現し、欠損すると運動障害で口蓋裂が発生することなどがわかった。GAD65,67のKOマウスはわれわれより半-1年遅れてそれぞれアメリカの研究室から発表されたが、実施された実験は少なく、分析も継続されなかった。

 生理研を定年退職後、理化学研究所脳センターに研究室をもらった。GAD67KOマウスは誕生しても発育できないので、成熟してからKOするようにコンディショナル・ノックアウトを企てた。糸原重美部長の協力を得て、GAD67のCre-loxPマウスを作成した。京大から小脳だけでCreを発現するPtf1a/Creマウスを譲り受けて、掛け合わせて小脳のGAD67が欠損するマウスを作成した。発育後にGAD67がKOされるマウスは完成できずに5年間の任期切れとなった。

Q: 研究者が育って行く時期に「これが一番大切だ」と思う事は何ですか?

 わたしが初期から自分の考えで研究を続けられたのは周囲の助力によるものと感謝している。細胞培養、モノクローナル抗体、遺伝子クローニング、ノックアウトマウスと新技術を取り入れて利用した。内科学会理事長も退官記念講義で新技術をつぎつぎと取り入れて研究を発展させたと述べられた。しかし大きな研究を成し遂げるには、必要な技術を自ら開発してまで進めることが必要である。この50年間、神経科学でも大小の技術進歩は目覚ましいものであった。現代ならネズミ脳のスライス標本を顕微鏡で見ながらニューロンにパッチ電極をあてておいて別のピペットで薬物を与えれば、わたしがネコでコアキシャル電極を用いてブラインドで記録して数年かかった実験も数週間でできるだろう。
 よその研究室の実情には詳しくないので、MIT利根川進研究室のポスドクであったI氏と京大沼正作研究室の大学院生だったN氏に尋ねてみた。両研究室は多くの研究業績を挙げられたので、研究者への締め付けが強かったのではないかと想像したからだ。利根川研は放任主義だったそうだ。もちろんラボに蓄積されている技術、学識を活用できるのは有利だ。そこで成果の上がった者の業績は大きく報告されたが、成果が出ずに去っていった者もかなりいたのだろう。残念ながらわが国ではそれを受け入れるほどの余裕が大学にも社会にもない。沼研では最初の2年ぐらいは先輩の研究に加わったが、そこで習得した後は自分で決めたテーマについて研究した。シークエンシングなど各自が得意な技術については同僚の研究を助けるのが習慣だった。

 現在は、立案した研究課題に対して高額の研究費を得て期限内に成果を挙げるシステムであり、若手研究者の多くも期限付き労働者であるから、研究者が自主性を貫くことが難しい。今年のノーベル生理学・医学賞受賞者の大隅良典博士が基礎研究の重要性を主張されているのはうれしい。博士は、わたしとほぼ同年代だが、貧しい研究室において顕微鏡一つで最初の発見をされたのだ。

後進への提言 「研究者とは、どのようにあるべきか」

 研究は個人が自然現象に感嘆し原因を探ることから始まる。それを伸ばすのが教師だ。高齢の教授では若者も遠慮するし、教授の空き時間も少ない。先輩が率先して教育にあたって欲しい。昔は自分が1年でも上なら下級者には先生だという気概を持っていた。
 以前は大学を卒業したら同じ大学の研究室に入るのが普通で、一生そこで過ごす人も多く、研究室を選ぶ余地が少なかった。現在はどこの大学院も門戸が開かれているので、自分の興味、希望をよく見極めた上で進路を選べる。外国留学も視野が拡がる。近年は外国への留学生が少ないようだが、帰国後の就職先を心配するようでは寂しい。外国の研究室、研究者を知り、外国生活でカルチャーショックを受けることは財産になる。戦後日本の先達は欧米に留学して技術を習得して帰国されたのち、自分で新しいテーマを見つけて発展された。外国で与えられたテーマを帰国後も続けたような方はいない。
 

クロスバイクで海辺を単独ツーリング、自分で自分に向き合う時間。

 技術の習得も重要だ。測定法の原理やコツを習熟して、エキスパートになることは、その時の実験にも役立つし、将来、それを使った新しい研究を企画できる。また外部の研究者が共同研究を持ちかけてくるので研究の幅が拡がる。わたしの大学院生の一人もきれいなデータがいつまでもとれず、研究が進まなかった。前に述べたが自ら新技術を開発することが重要なのは言うまでもない。

 最近、伊藤正男名誉会長がわたしに勧めてくれた論評「セルフィー時代の科学」(D. German と S. German著、PNAS 2016年9月号)を紹介して終わろう。伊藤先生も共感されたのであろう。筆者は二人とも1965年ころスタートした数学者であり、1915-1965年と1965-2015年の科学界を比較した。前の50年では予想もされていなかった大発見が続いた。純粋な思索のもとに重要な成果が得られたのだ。科学に対する社会の支援は十分ではなかったが、科学者には職場があり自分の仮説を実証していった。アインシュタインは論文をたくさん制作すれば知性が表面的になると警告した。ヒューベルはウイーゼルとの緊密な共同作業が自分の挫折やスランプを立ち直らせたと回顧した。

 最近の50年は大きく変わった。研究者はセルフィー(自撮り写真)を揃えて研究実績を宣伝しながら、データ探しに夢中だ。“統計的に有意な”データを見つけて発表するが、後には残らないような論文だ。研究者間の交流は盛んだが、オンライン中には自分の思索に集中できない。ビッグ・プロジェクトに加わろうとするが、チームワークは個人のアイディアを妨げて、ビッグ・アイディアを生まない。研究者は政府事業の請負人になってはならない。数学における今世紀の2大発見は、いずれも孤独の中で行われたそうだ。筆者が有効な対策を提示しているわけではないが、われわれは現状が良くないことを自覚していることが必要だ。若い研究者は、他人のビックプロジェクトに関わるばかりでなく、孤独の中で育まれるものにも時間を使うべきなのである。
 

 
(追記:ニュース前号で永津俊治先生の「道標」を拝読し驚嘆した。先生の重厚な名文には神経科学に取り組む諸氏への提言助言がもれなく記されていて、私に追加・異論は全くない。私は、読者に「研究者の一例」として読み飛ばして頂ければ…と思って本稿を気楽に書いた。永津先生の総論を熟読して頂き、後に続く私のは、各論のように思って気楽に読んで頂ければ、その後の「道標」の執筆者のご負担も減るかもしれない。
また、本稿は質問に適した回答とはなっていないところもあるのだが、それは、私の書き下し文を編集部が「道標」の項目に分けたことに寄るのであるが、それはそれで読みやすくなっているように思う。)