地図を手に山を登る

名古屋大学 大学院理学研究科 生命理学専攻
上川内 あづさ

 私たちの生活において、音は重要な構成要素の一つです。私たちは音によって危険を察知しますし、音要素の組み合わせである言葉を使ってお互いにコミュニケーションをとります。また、偉大な音楽は私たちの心に「美しい」という不可思議な感情をもたらします。では、物理的には単なる空気振動の集合体にすぎない音の配列が、どうして私たちの心に感情をもたらすのでしょうか。この疑問を神経科学の力で理解したい、と考えた私は、モデル生物として、ショウジョウバエに着目するようになりました。ショウジョウバエのメスは、「求愛歌」と呼ばれる羽音を使って雌に求愛します。求愛歌を聞くと、メスはだんだんオスを受け入れるようになりますし,オスは自身の求愛行動を活性化させます。ハエに心があるかどうかは分かりませんが、あれほど小さな動物でも音で行動が変化するのです。

 そこで私は、ショウジョウバエの聴覚システムの研究に取り組みました。まずはどのような神経回路が音の情報を受け取っているかを調べるために、ハエの「耳」と脳をつなぐ神経回路を徹底的に調べました。愛知県の基礎生物学研究所と東京都の分子細胞生物学研究所で伊藤啓准教授のご指導の下で研究を進め、3年間かけて精密な神経回路地図をつくることが出来ました。出来上がった神経回路地図を前にして、私はひとつの山を登り終えた気分でした。未踏の地だった山に分け入るための地図が出来たのです。そこで私はその地図を携え、ドイツへと向かいました。この地図を基に、カルシウムイメージングを行おうと考えたのです。

 ドイツではケルン大学のMartin C. Göpfert博士やヴルツブルク大学のAndré Fiala博士(共に現在、ゲッティンゲン大学教授)と一緒に、生きたままのハエの「耳」内部の神経活動を可視化する、といったテーマに取り組みました。初めての外国生活でしたが,周りの友人に助けてもらいながらなんとか生活を立ち上げ,研究を進めることが出来ました。実験系の立ち上げには苦労しましたが、一年間の試行錯誤の結果、どうにか目的のシグナルが見えてきました。感動的な瞬間でした。伊藤啓准教授や大学院生の稲垣秀彦さん(現在、カリフォルニア工科大学博士課程在籍中)との共同研究も同時に進めることで,今までは音を受け取るだけだと考えられていたショウジョウバエの「耳」が,音だけではなく重力の情報も受け取っていることを世界で初めて発見しました。私たちの耳と同じように,ハエの「耳」もこれら2種類の機械感覚情報を感覚器のレベルで弁別して、脳の特定の領域に活動地図として符号化しているのです。

 しかし、音で行動が変化するしくみは、まだ分かっていません。私は今、名古屋大学・大学院理学研究科で研究室を主宰し,この問いに向かって新たな地図作りを行っています。音の情報が脳に入ったあとに,どのような道筋で行動を制御する中枢にたどり着くのか、まずは、その地図が必要です。これから作り上げるその地図を片手に,さらに「脳」という山の奥深くに分け入っていきたいと考えています。

 最後になりましたが、この度はこのような名誉ある賞をいただき、大変光栄に感じております。選考委員の先生方,並びに日本神経科学学会の関係者の方々に厚くお礼申し上げます。また、学生時代から科学研究の基礎的な考え方とそこに潜む魅力を深く丁寧にご指導くださいました東京大学・大学院理学系研究科の久保健雄教授、ショウジョウバエの扱い方や神経解剖学の極意を基礎からご教授くださった東京大学・分子細胞生物学研究所の伊藤啓准教授,ドイツでいつも励ましてくださったMartin C. Göpfert教授とAndré Fiala教授、いつも親身になって相談に乗ってくれる友人であるJörg T. Albert博士(UCL Ear Institute)、そしてもちろん、常に支えてくれる家族に、この場を借りて感謝の意を述べさせて頂きます。今後とも神経科学学会会員の皆様のご指導とご鞭撻を賜りますよう、どうぞ宜しくお願い申し上げます。

受賞研究内容を議論する総説(Neuroscience Research掲載)
Kamikouch, A., 2013. Auditory neuroscience in fruit flies. Neurosci. Res. 76, 113-118.

kamikouchi
著者近影

[略歴]
1997年 東京大学薬学部卒業
1999年 東京大学大学院薬学系研究科機能薬学専攻 修士課程修了
2002年 東京大学大学院薬学系研究科機能薬学専攻 博士課程修了
2002年 基礎生物学研究所 博士研究員
2003年 東京大学・分子細胞生物学研究所 博士研究員
2005年 ドイツ・ケルン大学 博士研究員
2008年 東京薬科大学・生命科学部 助教
2009年 JSTさきがけ「脳情報の解読と制御」 兼任研究者
2011年 名古屋大学・大学院理学研究科 教授