嗅覚から記憶へ

嗅覚から記憶へ

ノルウェ-科学技術大学 カヴリ統合脳科学研究所
五十嵐 啓

日本神経科学学会奨励賞という名誉ある賞を頂き、大変嬉しく思っております。これまで多くの方々と共同研究を行うなかでご指導頂きましたので、これらの方々あってのこの度の受賞であると考えております。ご指導頂きました方々に心より感謝申しあげます。

人は考えるときに言語を使うが、言語を持たない動物はどのように頭の中で考えているのだろう? 中学生の頃に、飼っていた犬と遊んでいて不思議に思ったことが、脳に興味を持ったきっかけでした。高校生の時に読んだ、利根川進先生と立花隆さんの「精神と物質」によってこの気持ちはますます強くなり、東京大学理学部に進学後は、分子生物学を用いた神経科学を学ぼうと坂野仁先生の研究室で卒業研究を行いました。坂野先生や直接ご指導頂いた坪井昭夫先生(現・奈良県立医科大学)、先輩方からは、分子生物学と、科学はどうあるべきかという基礎をたたき込まれました。今井猛君(現・理研CDB)、小宮山尚樹君(現・UCSD)、宮道和成君(現・東京大学)たちの優秀な同級生にも恵まれ、研究室卒業後10年以上経ったいまでも彼らと気さくに研究や四方山の話が出来るのはとても楽しい事です。

その頃、脳を知るにはwiring(どう神経回路がつながっているのか)とcoding(神経細胞がどのような情報を表現しているのか)を知らなくてはいけないな、と感じていました。坂野研は主に嗅覚系をモデルとしたwiringをテーマに研究を展開していたのですが、もう一方のcodingに強い興味を持っていた私は、出来たばかりの医科学修士課程に進み、同じ嗅覚系でcodingの研究を行っている森憲作先生の研究室で大学院の研究を開始しました。当時、森研究室は理研BSIから移転してきたばかりで、森先生は大学院生の教育に大変情熱をお持ちでした。ご一緒に実験の指導をして頂いたこと、セミナー発表(森研はセミナーは英語でした)で厳しく指導されたこと、論文作成では妥協無く何度も推敲を重ねた指導を受けたことは大変有り難かったと感謝しております。また、このときに先輩だった永山晋さん(現・テキサス大学)とはその後長くに渡って共同研究をさせて頂くことになりました。

修士課程では、脳の一次嗅覚中枢である嗅球における、匂い情報のコーディングを研究しましたが (Igarashi & Mori, J Neurophysiol, 2005)、当時、森研究室でのもっぱらの興味は、嗅覚の最上位中枢である嗅皮質の機能の解明でした。嗅皮質の機能解析を、電気生理学やイメージング法など手法を変えつつ数年間試みましたが、明確な結論が得られない日々が続きました。そんななか、遺伝解剖学的に得られた「嗅皮質には機能的に類似の細胞が集合したパッチが存在する」という仮説はどうやら誤りなのではないかと考えるようになり、一つ一つの細胞の嗅球から嗅皮質への軸索投射を自分自身で可視化することにしました。イェール大学に移られていた永山さんとの共同研究のなか、嗅球の僧帽細胞と房飾細胞の投射先が嗅皮質内で分離していること、二つの細胞種は匂い刺激に対する応答速度が異なることを、juxtacellular recording/labeling法を用いて明らかにしました(Igarashi et al., J Neurosci 2012; http://physiology.jp/exec/page/page20120718083233/)。Juxtacellular法では礒村宜和さん(現・玉川大学)、軸索の長距離可視化法では古田貴寛さん(京都大学)に大変助けられ、研究を進めることができました。

嗅球の単一の僧帽細胞の軸索を顕微鏡で観察すると、軸索は遠く離れた外側嗅内野まで、細くも延々と続いています。外側嗅内野は海馬へと直接投射するため、嗅覚入力は末梢(嗅上皮)から海馬までわずか3シナプスで到達することになります。海馬・嗅内野での匂い情報処理様式に関してはほとんど研究がなかったことから、嗅内野の研究で世界をリードしているノルウェー科学技術大学のEdvard & May-Britt Moser先生夫妻の研究室の戸を叩き、匂いを用いた課題遂行中のラットでのスパイク活動の解析を開始しました。大学院生のLi Lu君、テキサス大のLaura Colginさんとの密接なチームでの研究から、海馬CA1領域と外側嗅内野の間では、課題学習に伴って、匂いを識別するスパイク活動が増加し、20-40Hz波長帯のオシレーション活動の同期が増強されることが明らかになりました(Igarashi et al., Nature 2014; http://first.lifesciencedb.jp/archives/8847)。オシレーション活動の同期は異なる部位間での情報伝達を促進させることが知られているため、私達の結果は、オシレーション活動の同期が海馬・嗅内野間の情報交換を促し、記憶を形成させることを示唆しています。

かつて経験したことのある匂いを嗅いで、そのときの記憶がたちどころに蘇る、ということは、私達の日常生活でよく起こることです。今後、シンプルな嗅覚―海馬回路系を用い、感覚情報から記憶への変換様式を明らかにすることで、このような匂いの記憶が脳でどのように実現されているのかを明らかにしていきたいと考えております。さらに、個々の脳部位での機能がどのように結合されることで高次機能が実現されるか、というシステムとしての脳機能のメカニズムを、嗅覚―海馬回路系をモデルに明らかにしていけたらと願っています。

略歴
1996年 暁星高等学校 卒業
2001年 東京大学理学部 生物化学科 卒業
2003年 東京大学大学院 医学系研究科 医科学専攻修了 (医科学修士)
2007年 東京大学大学院 医学系研究科 機能生物学専攻修了 (医学博士)
2007年 日本学術振興会 特別研究員(PD)
2009年 ノルウェー科学技術大学 カヴリ統合脳科学研究所 博士研究員
2013年 同 リサーチアソシエイト

(写真説明)Eric Kandel博士の名誉博士号授与式にて。左より、Whitlock博士(同僚)、May-Britt Moser先生、Kandel夫人、Edvard Moser先生、筆者、Kandel博士、Giocomo博士(同僚)。