小さな脳から探る神経回路

ハワードヒューズ医学研究所ジャネリアリサーチキャンパス
髭 俊秀

このたびは大変名誉ある賞を賜る事になり、誠に光栄に存じます。これまでお世話になった先生、先輩、共同研究者、同僚の皆様、それから日本神経科学学会奨励賞選考委員会の先生方に心より御礼申し上げます。

  アメリカ、フィラデルフィアにあるムターという風変わりな博物館には理論物理学者アインシュタインの脳切片が展示されています。脳の偉大な機能を知りたい神経科学者にとって、それは憧れの標本であるはずですが、そこに認められるいくつかの軽微な解剖学的特徴からその脳が果たした特別な機能を推測するのは当然ながら困難です。数少ない天才の脳を研究するのが難しいなら凡人の脳ならどうか。あるいはヒトは諦めて他の霊長類を用いるか。それともさらに扱い易い小型哺乳類を対象とするか。いろいろな手法が考えられますが、私の研究対象はそれらをうんと通り超してショウジョウバエという体長3mmほどの小さなハエです。要は虫です。なぜこのような虫を対象にするのか。それは単純に、このちっぽけな虫の脳すら理解できないようではヒトの脳を理解する見込みはない、そう思わせる強みがこの虫には備わっているからです。

  大学院生時代、私はラット脳切片を用いて、神経細胞間のシナプス伝達機構および伝達効率変化に関する研究を行いました。高橋智幸先生(当時東京大学)の研究室で教わったシナプス生理学的思考と電気生理学的手法は、今も私の研究の根幹を成しています。これらの研究を通じ、私は次第にシナプス伝達効率の変化がどのように神経回路レベル、あるいは個体の行動レベルでの変化に結びついていくのかに興味を持つようになりました。

  遺伝学的手法において圧倒的な強みを誇るショウジョウバエですが、もう一つの重要な利点は神経回路のシンプルさです。構成する神経細胞の総数は約10万個。これはネズミに比べても3桁、ヒトより6桁も少ない数です。それでいて様々な部分で我々の脳と共通する回路の基本構造を有しています。この複雑過ぎず、単純過ぎない神経構造が、シナプス変化から行動変化に至る神経回路の基本原理発見という私の長期的目標に最適と判断しました。しかし当時この系で後れを取っていたのが生理学的研究です。中枢神経系の細胞からのホールセル記録が初めて報告されたのは2004年になってからの事です。私は日本学術振興会の支援を受けて渡米し、この手法の先駆者の一人であるGlenn Turner博士の研究室(当時コールドスプリングハーバー研究所)に博士研究員として参加しました。ジャネリアリサーチキャンパスとの素晴らしい共同研究にも恵まれ、当初の大きな目標であった、ショウジョウバエの嗅覚学習に関わる長期シナプス可塑性の発見に貢献する事ができました。

  今、ショウジョウバエの神経回路研究は、驚くべきスピードで進展しています。一細胞レベルでの特異性を持つ遺伝学的ラベルの開発は全ての脳領域に及び、この手法により個体の様々な行動要素に関わる神経細胞が網羅的に同定されつつあります。また、全脳の配線図である電子顕微鏡レベルのコネクトームの完成はもはや時間の問題になっています。これらのツールおよび情報は、言うまでもなく私の今後の研究に大きく役立つものばかりです。
  そんな中、私は2018年1月よりノースカロライナ大学チャペルヒル校にてAssistant Professorとして研究室を主宰することになりました。この米国有数の伝統校におけるニューロサイエンスコミュニティの成長は近年著しく、そのようなエキサイティングな環境に身を置いて研究ができる事を非常に楽しみにしています。今後とも当初掲げた長期目標に向かって邁進していく所存です。

受賞研究内容を議論する総説(Neuroscience Research掲載)
Hige, T., 2017. What can tiny mushrooms in fruit flies tell us about learning and memory? Neurosci. Res. In press

[略歴]
2003年        京都大学理学部卒業
2008年        京都大学大学院理学研究科博士課程修了
2008〜2015年   コールドスプリングハーバー研究所 Postdoctoral Fellow
2015年〜現在     ジャネリアリサーチキャンパス Research Scientist


筆者近影