[一般の方へ ] 学会からのお知らせ

2026年度 日本神経科学学会奨励賞受賞者 磯村 拓哉 先生

変分の数学で脳を表現する

理化学研究所脳神経科学研究センター
磯村 拓哉
このたびは、日本神経科学学会奨励賞という大変名誉ある賞を賜り、心より光栄に存じます。選考委員の先生方、ならびに学会関係者の皆様に、深く御礼申し上げます。
私が考え続けてきたのは「生物の知能に固有のものは何か」という問いです。子どもの頃からロボットが好きで、生物のように自ら学び考える機械をつくりたいと願ってきました。しかしAIが高度化するにつれ、訓練された範囲で知的に振る舞うAIをつくることと、生物の脳が知能を獲得する原理を理解することは、必ずしも同じ問題ではないと感じるようになりました。外から見える行動が似ていても、背後で同じ自己組織化が起きているとは限らない。脳に固有の構造を、どのような数理として書き下せるのか。これが私の研究の根幹にあります。
修士1年の頃、Karl Friston先生の自由エネルギー原理に出会いました。知覚・学習・行動を変分自由エネルギーの最小化として統一的に記述する、壮大な構想です。たとえば部分観測マルコフ決定過程の下での事後期待値のベイズ更新は
と書け、神経活動の方程式
と確かに「似て」います。しかし、似ているだけでは、自由エネルギー原理は数ある神経モデルの一つにすぎません。なぜこの式を神経活動と見なせるのか。どういう意味で唯一と言えるのか。ポスドク1年目に英国のFriston先生の元に留学し議論を重ねましたが、この疑問はむしろ膨らみ、長く霧の中にいる状態が続きました。
転機は、留学から戻って1年ほど経った2019年3月末、突然訪れました。発火率モデルとして自然な逆シグモイド型の活性化関数
を式2に与えると、これは因子構造を持つ部分観測マルコフ決定過程のベイズ更新式(式1)と数学的に同値になることに気づいたのです。どちらも同じエネルギー関数の微分として導かれ、そこから導かれるシナプス可塑性の方程式も一致する。記号の違いを取り除けば、本質的に区別できない。──これは、ベイズ脳という一つの仮説から、力学と推論に共通する変分不変構造こそが本質である、という見方への転回でした。電気回路が、電圧電流の力学、物体軌道のシミュレーション、論理演算装置のいずれとしても読めるように、神経系もまた、力学・推論・計算という異なる座標から眺められる共通構造を持つ。私はすぐに論文原稿を書いてFriston先生に送り、返ってきた “It was brilliant.” という言葉に、大きく励まされました。
この視点を、現在は「生成モデルのリバースエンジニアリング」として発展させています。神経活動の方程式やデータから、暗黙に最小化されているエネルギーを逆算し、対応する生成モデルを復元する。この方針で、標準的な神経回路の力学が、外界の変分ベイズ推論とも、チューリングマシンによるアルゴリズム計算とも数学的に等価であることが分かり、「三重等価性」として整理しました。さらに、自由エネルギー原理を「法則」と「実装」に分けて捉え直す試みとして、情報力学の構築を進めています。
理論は単独でも価値を持ちますが、現実に接続するには検証も不可欠です。学部の頃から行ってきた培養神経回路の実験では、初期の刺激応答から生成モデルをリバースエンジニアリングし、その後のシナプス可塑性を定量的に予測することで、自由エネルギー原理の予測的妥当性を示しました。さらに、動物個体の訓練初期の神経活動と行動データにも同様の解析を適用し、被験体ごとに学習に伴う神経活動・シナプス・行動の変化を予測できることを確かめつつあります。変分不変構造は、理論の対象から、生物の自己組織化を予測する定量的な道具へと姿を変え始めています。
神経科学は豊かな実験的発見に支えられて発展してきた分野です。これに加えて、理論が実験に先んじて何を測るべきか、どの座標で世界を見るべきかを示す関係を育てていくことも重要だと感じています。AIが高度化する今だからこそ、限られた経験から世界を捉えて適応する生物の脳の原理を、理論の側から問い続ける意義はいっそう大きいと思います。私自身、その方向で研究を続けるとともに、理論研究を主軸とする若い研究者が育ち、活躍する環境にも貢献していきたいと考えています。
最後に、大きな問いを共有しながら長年議論を重ねてくださったFriston先生はじめ国内外の共同研究者の皆様、これまでご指導をくださった先生方、そして日々の研究を共にしてくれている研究室のメンバーに、改めて深く御礼申し上げます。このたびは誠にありがとうございました。
受賞研究内容に関する総説(Neuroscience Research掲載)
(後日掲載予定)
略歴
2012年3月 東京大学工学部精密工学科卒業
2014年3月 同大学大学院新領域創成科学研究科人間環境学専攻修士課程修了
2017年3月 同専攻博士課程修了 博士(科学)
2017年4月 理化学研究所脳科学総合研究センター 基礎科学特別研究員
2018年4月 理化学研究所脳神経科学研究センター 基礎科学特別研究員
2020年4月 同センター 研究員
2020年6月 同センター 脳型知能理論研究ユニット ユニットリーダー
2021年4月 京都大学大学院情報学研究科システム科学専攻 連携准教授
2023年4月 文科省科研費学術変革領域研究(A)「予測と行動の統一理論の開拓と検証(2023~2027)」領域代表
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