日本神経科学学会アウトリーチ委員会より書籍出版のお知らせ
「世界一面白い脳の講義 脳の謎を科学で解き明かす」
日本神経科学学会では、一般の方への研究成果の還元や普及を目的として、2000年より毎年、年次大会に附随して市民公開講座を開催してまいりました。特に2015年以降は、アウトリーチ委員会(当時の名称:神経科学教育委員会)を中心とし、より親しみやすいTED形式のプレゼンテーションを「脳科学の達人」シリーズとしてお届けしております。この度、「脳科学の達人」10周年を記念して、これまでの内容をまとめた書籍『世界一面白い脳の講義 脳の謎を科学で解き明かす』が刊行されました。会員の皆様をはじめ、一般の方にもお楽しみいただける内容となっておりますので、ぜひご一読ください。
【書籍紹介】
まえがき:林(高木)朗子〈理化学研究所 脳神経科学研究センター〉
■最も身近で、最もミステリアスな臓器「脳」
脳は、私たちにとって最も身近でありながら、最もミステリアスな臓器かもしれません。考える、感じる、眠る、怒る、不安になる、誰かを思いやる、未来を想像する。そうした日々の経験は、すべて脳のはたらきと深く関わっています。
しかし同時に、ヒトの脳の中で何が起きているのかを、私たちは通常、直接見ることができません。その見えない世界に、実験、観察、計測、理論、そして研究者としての使命感をもって迫っていくのが神経科学であり、日本神経科学学会(以下、本学会)が対象とする学問領域です。
本学会では、2015年から「脳科学の達人」という市民公開講座を開催しています(巻末付録参照)。毎年、日本神経科学大会の最終日に、神経科学の第一線で活躍する新進気鋭の研究者が登壇し、自身の研究分野の背景から最新成果、そして未来への展望までを、一般の方にもわかりやすく語ります。
講座は公開後にアーカイブ化され、
YouTube(「日本神経科学学会市民公開企画」)を通じて誰でも視聴できるようになっています。専門家向けの学術大会から、市民へ向けて研究の熱気を直接届ける場。それが「脳科学の達人」です。本格的な学術講座でありながら、多くの視聴者に届いていることは、脳への関心の高さ、そして科学を知りたいという社会の期待をよく示していると思います。
本書『世界一面白い脳の講義 脳の謎を科学で解き明かす』は、その「脳科学の達人」をもとに構成された一冊です。登場するのは、日本を代表する神経科学研究者たちです。
■神経科学という広大な世界を旅する紀行…そのオムニバス
第1章では、睡眠と意識を扱います。私たちは眠っているとき、本当に外界から切り離されているのでしょうか。夢を見る脳、眠りながら情報を処理する脳、そして意識と無意識の境界にある脳の活動が紹介されます。
第2章では、脳の「すきま」に注目します。神経細胞だけでなく、それを取り巻く細胞外空間やグリア細胞、体液環境が、脳のはたらきをどのように支えているのかという視点は、脳をひとつの生きた組織として捉え直すきっかけを与えてくれます。
第3章では、「柔軟な脳」がテーマです。状況に応じて考え方を切り替え、新しい解決策を見つける能力はどこから生まれるのか。前頭前野や神経活動のパターンを手がかりに、柔軟な思考の仕組みに迫ります。
第4章では、困難な状況でも未来へ踏み出す「前向き」の脳科学が語られます。第5章では、攻撃行動を扱います。攻撃性は一見すると否定的なものに見えますが、動物にとっては生存や子孫を守るための行動でもあります。その一方で、過剰な攻撃性がどのように生じるのかを考えることは、人間社会にとっても重要な課題です。
第6章では、不安と恐怖の記憶が取り上げられます。トラウマ体験はなぜ忘れられないのか。不安を生み出す脳の仕組みを知ることは、PTSDなどの理解と支援にもつながっていきます。
第7章では、うつ病の脳科学が語られます。うつ病はなぜ起こるのか、どこまで治るのか。古典的なモノアミン仮説から、ストレス、神経回路、シナプス可塑性、運動や治療の効果まで、現代の研究がたどり着いた複雑で誠実な理解が紹介されます。第8章では、アルツハイマー病が「治る病気」になりうるのかという大きな問いに向き合います。アミロイドβ、タウ、神経回路、空間認知、早期診断と治療の可能性を通じて、認知症研究の現在地が見えてきます。
第9章では、脳活動から心を読むブレイン・デコーディングが登場します。fMRIやAIを用いて、脳を「読む」技術の可能性と限界が語られます。第10章では、BMIやAIによって、人間の身体やコミュニケーションの制約がどのように変わるのかという未来像が描かれます。これに加えて、本書には、未来志向のプロローグと3つのコラムも収録しました。
■すべての人に感じ取って欲しい「現場の熱気」
本書『世界一面白い脳の講義』を通して感じていただきたいのは、完成された知識の一覧ではありません。むしろ、科学がまさに進んでいる現場の熱気です。
わからないことがあるからこそ、研究は始まります。予想と違う結果が出るからこそ、次の問いが生まれます。神経科学の歴史は、仮説を立て、実験し、ときに間違い、また考え直すことの連続です。科学的に考えるとは、すぐに答えを決めつけることではありません。不確かさを引き受けながら、少しずつ確かなものへ近づいていく態度のことです。
若い読者の中には、この本をきっかけに研究者を目指す人がいるかもしれません。顕微鏡をのぞき、脳活動を記録し、動物の行動を観察し、人の心の不思議を問い続ける仕事は、決して平坦ではありません。
しかし、自分が立てた問いによって、世界の見え方が変わる瞬間があります。その喜びを、ぜひこの本から感じ取ってほしいと思います。もちろん、すべての人が研究者になる必要はありません。けれども、科学に触れることは、どのような人生を歩む場合でも、その人にとって世界を見るための大切な道具になります。
すでに社会に出ている読者にとっても、科学的な考え方は、日々の仕事や暮らしを少し自由にしてくれるはずです。子どもたちの学びやつまずきを、「努力不足」という一言で片づけるのではなく、脳と心の発達、環境、個性の違いとして捉える視点が得られるかもしれません。
医療従事者であれば、患者さんの苦しみを、症状や診断名だけではなく、脳、身体、生活、社会との関係の中で理解する助けになるでしょう。政治・経済関係の方であれば、教育、医療、福祉、労働、少子高齢化といった社会課題を考えるとき、人間の脳と行動の特性を踏まえた制度設計の重要性や、AIやニューロテクノロジーがもたらす可能性、それを誰のために、どのような倫理のもとで使うのかを考えるきっかけになるかもしれません。
■より明るく、自由に、安らかに生きるための手がかり
科学は、ときに私たちを元気にしてくれます。それは、科学が「すべては解決できる」と安易に約束してくれるからではありません。むしろ、世界は複雑で、人間もまた複雑であることを教えてくれるからです。複雑さを知ることは、不安を増やすことではなく、単純な決めつけから私たちを解放してくれます。
心の苦しみ、老い、病気、怒り、不安、記憶、意識。そうしたものを科学の言葉で少しずつ理解していくことは、自分自身や他者に対する理解を深めることにつながるはずです。
つまり、脳科学は、万能の答えを与えてくれる魔法ではありません。それでも、私たちがより明るく、自由に、安らかに生きるための手がかりを与えてくれるのです。
本書に登場する「達人」たちの言葉から、科学することの面白さ、世界を問い直す勇気、そして未来へ向かう力を感じ取っていただければ幸いです。